fantôme de l'Opéra 

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 闇が広がっていた、一面に。
 時間を忘れそうになるくらい、ただ、何もない闇だけを見上げていた男は突然、起きあがった、音が聞こえたのだ。
 今日は一人で過ごすつもりだった、クリステイィーナもレッスンには来ない、だとすればジリイ、いや警察長官かと思ったが、あの男は数日前に来たばかりだ、だとしたら、劇場関係者、いや悪くすれば侵入者かもしれない、となれば厄介だ。
 男は体を起こすと確かめるために自分の部屋に戻り支度をした。
 万が一の場合、邪魔者は消す必要があるからだ。
 無駄な殺しはしないと警察長官には約束したが、この場合は違う、
 正当な理由になる筈だ、それに自分が絶対に人殺しをしないという言葉を口にしたからといって誰が信じるだろう。
 自分は君の友達だと名乗る警察長官にしても半信半疑だ、だから、月に何度か、いや、暇さえあれば地下に尋ねてくるのだ。

 音がするのは湖の方角だ。
 足音をたてないよう、気づかれないように用心しながら男は確かめようと近づいた。
 だが同時に声が聞こえてきた、会話ではない音、それは歌だ。
 思わずクリスティーナかと思ったが、明らかに声が違う、しかも聞いた事のない言葉、英語、フランス語でもない、ではなんだ、聞いたことのない言葉は異国のものだとして、では。
 この地下に外国人がいる、真っ先に頭に浮かんだのは面倒なことになるかもしれないということだ。
 なら答えは簡単だ、始末したほうが後腐れがなくてすむ、相手が誰
であれ、男でも女でも。
 だが、このときになってふと彼は思った。
 自分は人殺しだ、今まで様々なやり方で首に縄をかけ、ナイフで心臓を突き刺して、首筋を切り裂いて何人も殺してきた。
 だが、それらは皆、自分に悪意を持ち危害を加えようとしたからだ。
 しかし、無関係の人間を殺すのはどうたろう、いや、相手に苦しみを与えずに始末すればいいと彼は考えた。
 他人が聞けば勝手な理屈だと思うだろう。
 だが、無理もない、今いる場所はオペラ座の地下でも最下層に近いのだだ、こんなところへ来るのは身を隠す為か、何か事情があっての事に決まっている。
 普通の人間であるはずがないと決めつけて、隠し持っていた縄に手をかけた、そして確かめようとした。


 女だと、まさか。
 自分が見ているものが現実のものであると認識すると男の中の殺意が
揺らいだのも無理はない、歌っているのは女で裸だ、自分の頭がおかしくなって幻覚を見ているのかと思い、何度か瞬きをしたが、幻ではなかった。
 水浴びをしているようだが、信じられなかった、いや、こんな場所だからこそ、人がいるなどと思ってもみないのだろう。
 しかし、この女はどこから来たのか。
 しばらくすると女は自ら出て服を着たが、女らしい格好ではなかった。
 下層階級の男が着ているようなシャツにズボンという服装なのだ。
 もしかしてオペラ座の道具係、下働きの人間かと思った。
 女だとまともに働くことも勤め口もないので身分や性別を偽って男に返送して働く者もいると聞いたことがある。
 だが、あれは神の色はどうだ、真っ白だ。
 年寄りかと思ったが、歩き方や体つきからそうでないのがわかる。
 もっと近くで見ることができればと思い、服を着て歩き出す女の後を気づかれないように男は追いかけた。
 そして、声をかけた。


 「エリック、なんだって、もう一度言ってくれないか」
 自分の耳がおかしくなったのかとナーディル・カーンは尋ねた。
 「ああ、尋ねる時は前もって連絡してくれと言ったんだ、突然、来てノックもそこそこにドアをあけては驚くだろう」
 ナーディル・カーンは唖然とした表情で仮面の男を見ると最初から話してくれと説明を求めたのは無理もない。
 十日ほど前に地下に住む友人の元を訪れたとき、女性と暮らしていると聞かされたときは驚いた。
 咄嗟に頭に浮かんだのはオペラ座のプリマドンナ、クリスティーナ・ダーエのことだ。
 だが、あり得ないことだ、では誰だ。
 他人と接することを好まない彼だが、それでも街に出たりしている。
 
 「誰なんだ、その女性は、もしかして」
 娼婦ではと言いかけてナーディル・カーンは口をつぐんだ。
 目の前にいる友人でもある仮面の男は、見かけと違ってプライドが高い、金を払って女性を買う行為自体が悪い訳ではない。
 だが、彼の口調からすると、その女性は、まるで市井の普通の女性のように聞こえるのだ。
 「一緒に暮らしている、もう、一ヶ月ちかくになるが」
 「なんだって、どうして黙っていた」
 君が質問責めにすると思ったからだ、今だってと言われてナーディルカーンは黙り込んだ。
 「どういう経緯で、どこで知り合ったんだ」
 「ここで地下で会ったんだ」
 話を聞くうちに、ナーディル・カーンの顔色が少しずつ変わってきた。
 「騙されているんじゃないか、
その女性は、もしかして犯罪者ではないのか、ここへ逃げ込んで」
 「君なら、そう言うと思ったよ」
 自嘲気味な笑いだった。
 「残念だが、君の予想は何一つ当たっていない、断言してもいい」
 その言葉に安心するどころか、不安は益々、大きくなった。
 一度会わせてくれないか、その言葉に仮面の男は今日は駄目だと呟いた。

 どうする、ナーデイル・カーンは彼女に会いたいという。
 正直なところ、今になって後悔していた、自分が一人ではなく女性と暮らしていることを話さなければよかったと。
 だが、秘密というものはいつかはばれてしまうものだ、それにずっと隠し通す事は無理だと今までの経験からわかっていた。
 自分が幽霊として、このオペラ座に住むようになって、クリステイーナと出会って、隠し通そうと思ったものはものは徐々に薄紙を剥がすように露わになってしまったからだ。
 クリスティーナ、彼女が幼なじみのラウルとの結婚を今になって躊躇っているのは驚きだった。
 シャニュイ家の財政が逼迫していること、兄のフィリップが貴族間のもめ事、横領に関与していたことが世間の知ることとなって、今や世間は二人の兄弟に向ける視線は冷たいものになっている。
 そしてクリスティーナは躊躇っている、無理もない。
 もしかしたら自分の元に戻って来るかもしれない、そんな事を考えたがラウルに対する冷たい態度を知った今、素直に喜ぶことも受け入れることもできないと思っていた。
 所詮、女という生き物はと思う、ペルシャにいた頃の皇后の残酷さを思い出すと身勝手で残酷な生き物だ。
 だが、それでも。
 今、自分のしていること似意味があるのだろうかと思い仮面の男は部屋を出るとオペラ座の地下に向かった。


 自分の住んでいる場所から少し離れた洞窟の一部、物置代わりに使っていた部屋の前まで来ると男はドアをノックしてしばし待った。
 足音がして部屋のドアが開くと同時に、お帰りなさいと迎え入れる声に安堵した。
 「気分はどうだい」
 「とてもいいわ、それよりどうしたの、今日は来ないと思っていたわ」
 「話があってね、実は私の友人が君に会いたいといいうんだ」
 遠回しに言ったところで結局は同じ事だと思い、自分が君の世話をしていることに対して不思議に思って君から、本人の口から話を聞きたいと思っている、この言葉に女は確かにと頷きながら会っても構わないわと仮面の男をみた。
 「あたしを不審者だと思っているんでしょう」
 「そういうわけではない、だだ、君は外国人だから気になるんだろう、それに、彼の場合、職業病のようなものだ」
 「職業病って」
 「彼はペルシャで警察つとめをしていたんだ」
 その言葉に女の表情がわずかに強ばった。
 「もし、怪しい人間だと思ったら牢屋に、バスティーシュとかに入れられるの」
 その言葉に仮面の男は首を振った、とんでもないといいたげに。
 「何故、君を」
 「最初に言ったでしょう、自分の事を覚えていないって、それに外国人だから怪しいと思われたら言い訳や弁解しても無理だと」
 そんな人間ではないと男は首を振った。
 女はわずかに俯くと人を疑ってばかりというのも駄目ねと自嘲気味に笑いながら床に腰を下ろした。
 「あなたは、私のことを怪しいとか、魔女じゃないかって思わないの」
 男は何故と驚いて尋ねた。
 「パリに外国人は多くはないんでしょう、怪しいと思ったら魔女裁判で絞首刑とか聞いた事があるし」
 「昔はあったかもしれないが、勿論、今だって全然とは言いきれないかもしれないが、そんなことを何故」
 男は、ゆっくりと女の隣に腰を下ろした。
 「記憶がないというのは嘘じゃないけど少しは覚えているの、パリのオペラ座は有名な場所で、寺院や教会は沢山あって、芸術家達は道端で絵を描いて、芸術の街と言われてるのに町中でジプシーが踊ったりするのはいけないとか」
 男は黙って聞いていた、だが知りたいのはそんな事ではなかった。
 自分が知りたいのは女自身のことだ。
 「名前は、君自身の名前は思い出せないのか、どこに住んでいたかとか、家族や友人、知り合いとか」
 女は肩をすくめた。
 「でも、思い出せそうな気がするの、凄く変な言い方かもしれないけど、おかしいと思う」
 「いいや、それに助けるよ」
 その言葉に女は少し考え込むような表情になり、次の瞬間笑った。
 「駄目、もし面倒に巻き込まれて困ったとしても助けないで」
 男は答えず、片手をゆっくりと女の背中に回し、それはできないと、私にはできないと答えた。
 「ムッシュウ」
 男は首を振り、エリックだと答えた。
 クリスティーナは以前、自分の事を音楽の天使と呼び、今は先生と呼ぶようになった、だが、この女は弟子ではない。
 プリマドンナとして舞台に立ちたいと望んでいるわけではない。
 女の肩に触れた手から指の先から、この半月あまり、押さえていたものが、溢れ出しそうだった、自分の名前さえ忘れてしまった記憶のない女の存在に気持ちだけでなく。
 
 肩が、指先が、緊張の為なのか震えてしまう、だが、どうしても止められなかった。
 今まで、何度か、その衝動を押さえてきたが、ずっとこのままと言うわけにはいかない。
 ナーデイル・カーンに会わせるまでに決定的な答えを出しておく必要がある、その為には今のままでは曖昧なままでは駄目だと思っていた。

 「私は紳士的に振る舞っているつもりだ、君に対して」
 女は頷いた。
 「寝る場所や食事も提供してくれて本当にありがたいと思っているわ、無一文同然の人間に感謝しているの」
 そういう言い方は心外だと男は言葉に詰まった。
 自分の行為は善意からのものだと言われているような気分になったからだ、そんな人間ではないのに。
 「少し迷っているんだ、君と私がどういう関係かと聞かれたら、なんと言って説明すればいいか」
 「同居人は無理よね、下働きと言っても外国人の労働者やメイドなんて
不審に思われるでしょうし、その人はいつ、ここへ来るの」
 「一週間ほどしたらまた来ると言っていたが」
 女の表情に感じたのは不安だった。
 ここを出て行くのではないだろうか、だが聞くことができない。
 「あなたに、お礼をしないと」 
 女の顔が自分に向けられ、手が、指が仮面に触れた。
 望んでいたことだというのに、男は慌てて肩に回した手を離すと、やめてくれと拒絶した。

 「どうして、ムッシュウ」
 「欲しいものは、そんなものではない、代償とかではなく」
 情けないと思いながらも縋ってしまう、なんてあきらめが悪いのだろうと思わずにはいられなかった。
 「オペラ座の怪人、あなたでしょう」
 「ああ、知っていたのか」
 「仮面をつけた幽霊、その素顔は化け物みたいだって噂を聞いた事があるから」
 男は何も言わず仮面をゆっくりと自らの手ではずした、女が逃げるなら、この場で首を締めて殺してしまえばいい、だが、その前に支払ってもらう、代償を。
 そして、待っているのは。

 女の手が自分の頬を、盛り上がった頬の肉、歪んだ唇、いびつな目元を撫でながら、両手を自分の体に回してきた。
 空気が、部屋の中が暑い、いや、自分の体が熱いのだ。
 乳房を、腰を、柔らかな肌と肉を感じながら、素顔と自分の体を押しつけて、言葉を発する事もできずにいた。
 ただ、欲望と本能のままにだ。
 行為が終わると床に寝ころんだまま、身動き一つせず女が疲れて乾いた声で尋ねたが、何を言ったのか。
 
 「ここに居てくれ、君の望み、欲しいものをいってくれ、できることは叶える、わたしにできることは、お願いだ」
 かすれた女の声になんだってと男は尋ねた、聞き取れなかったのだ。
 何をとだすねると今度は聞こえた、その言葉に頷き、女の体を抱き上げた男は部屋の隅のベッドまで運ぶと女の体を横たえた。
 「凄く疲れるものなのね」
 その言葉に男と寝たことがないのだろうか、いや、あったしても、どうだというのだろう。
 何も言わずに男は顔を近づけ、初めて女の唇に触れた。
 行為の間というもの、獣のように体に触れておきながら、キスをしていない事に気づいたからだ。
 
 「愛している」

 女は拒絶しなかった。


エリックだ、名前を呼んでくれないか」
 少しでも近づきたい、距離を縮めたいと男は自分の事を名前で呼んでくれるようにと頼んだ。
 そして暇さえあれば彼女の部屋を尋ねた。
 少しでも近づきたいと思ったからだ、そして、拒絶されない限り、彼女を抱いた。
 といっても最初の夜のような全身汗だくになり、獣のような欲望をむき出しで溺れるような行為は避けた。
 
 「ベッドを作り直すって」

 その日は男は朝食をすませると女の元を訪れ、仕事に取りかかった。
 ベッドを作り直すと言うと女は何故と不思議そうに尋ねた。
 二人で過ごす夜が事が増えてきたからだと言いかけたが、最後まで口にするのをしなかったのは多少の恥ずかしさがあったからだ。
 「近いうちに友人がやってくる、会ってくれるだろう」
 「ええ、それは約束したでしょう」
 「君の事をなんと言って紹介しよう、同居人と説明しても納得しないかもしれない」
 「そうね、私娼というのは」
 男は叫んだ、娼館の女でも、許可証を持たない、金の為ならどんな人間だろうと相手をする、そんな女と目の前にいる女を同じだと。
 「恋人では、駄目か」
 「駄目でしょう」
 優しい声だが、きっぱりと言われてしまい男は内心落胆した。
 「愛してはくれないのか」
 抱き合って、キスも、体も、一線を越えたというのに。
 「あなたがオペラ座の怪人で地下に隠れ住んでいるからというわけではないの、理由は別にあって」
 言葉が最後まで続かなかったのは抱擁とキスのせいだった。
 

 「何故、教会で会うんだ、ここでは駄目なのか、エリック」
 彼女の希望なんだと仮面の男はわからない、何故、急にそんな事を言い出したのかと困惑気味に答えた。
 「その女性は記憶がないというが、外国人という以外何かあるのか」
 「何かとは」
 「外見的特徴だ、記憶がないというが、もしかして捜索願いが出ているかもしれないだろう」
 「心当たりがあるのか」
 「いや、君の話を聞くと女性にしては色々なことを知っている、学校は無理でもちゃんとした教育を受けているように感じる」
 仮面の男は無言になった、出会いからして普通ではなかったので、そんな事を気にも求めていなかったのだ。
 「市井の人間なんだろうか、もしかして、どこかの貴族の」
 「囲い者か、愛人だというのか」
 「あり得ない事ではないだろう」
 「いいや、彼女は初めてだった、男を知らなかった、囲い者、愛人だと侮辱だぞ、その言葉は」
 「エリック、君は」
 ナーディル・カーンは驚いた。
 そして君は彼女と、そういう関係なのかと問いつめるように尋ねた。
 「ああ、寝たよ、彼女を抱いた何度もだ、そして夜を過ごしている、言っておくが」
 「わかっている、ペルシャにいた頃の君を知っている、どれほどの罪を犯しても、女性に対して、君は、それだけは」
 「ああ、よくわかっているじゃないか」
 やはり、この男は自分をよく知っている、殺さないでおいてよかったと思いながら、正直、不安になった。
 貴族が外国人を淫猥な怪しい宿や阿片窟で売買して愛人として買っているという話は今でもよく聞く。
 彼女がそんな環境の下にいたら、それが嫌で逃げ出してきたのだとしたらどうだろう、あり得ないことではない。
 このとき、男は不安を覚えた、ナーデイル・カーンの言葉はあり得ない事ではないからだ。
 嘘をついていたとしても、それが身を守る為のものだとしたら責めることができない。
 三日後に教会で会うという約束をしたことを、このときになって男は後悔していた。

 初めて出会ったときと同じ服装で女は外に出るという女の言葉に最初のうち男は首を縦には振らなかった。
 ドレスを仕立てたとしても数日はかかるから間に合わないのとはわかっている、なら、オペラ座の衣装部屋から拝借して、せめて女性らしい格好をと思ったが、女は激しく拒否した。
 そうでなくとも自分の白髪は目立つ、ひらひらとしたスカート姿で外国人だとわかれば尚更、奇異な目で見られる。
 そういわれると男も強くは言い返すことができなかった。

 
 
 自分の名前を思い出せないのです、気がついたら真っ暗な地下下水道に迷い込んでいて、歩き続けていました、そして、この人に助けられたのです。
 淡々と話す女の言葉をナーディル・カーンは黙って聞いていた。
 「あなたは自分のことを何も覚えていないというのですか、マドモアゼル、その、なんとお呼びしたらいいのか」
 「ナーディル・カーンさん、あなたは自国で警察長官という立場だと聞きました、では、ここではパリではどうなのでしょう」
 「正式にという訳ではありませんが、要請があれば頼まれて仕事をすることもあります」
 女は頷いた。
 「あなたは捜していたのではないですか、そして今、目の前にいると確信しているのではないですか、ごめんなさい」
 女は最後の言葉、ごめんなさいは仮面の男に向けられたものだった。
 女はナーディル・カーンに向けて女は両手を差し出した。


 一ヶ月前にパリの街で火事が起きた。
 貴族の館が燃えたのだが、犯人は捕まらなかった。

 「火をつけました」
 
 その告白にナーディル・カーンは、女ではなく自分の隣にいる男、仮面の男に視線を向けた。
 「エリック」
 だが、男は答えようとはしなかった。


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