堕ちてきた人 4

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それは根拠のない真実とは思われない噂だったので、若い僧侶達から聞かされたときもフロローは話半分に聞いていた。
 だが、数日が過ぎ、クリスティーナ寺院の近くを通りかかったときだ。
 大勢の人間、それも職人らしき男たちの姿を見て驚いた。
 もしかして本当なのか、教会の建て直し、修繕に大がかりな工事が始まるというのは。
 だが職人を雇ってというのは、いったいどこから、そんな金があるのか。
 パリは教会や寺院に対して最低限の援助はするという姿勢を見せているが、それも数年前のことだ、ここ最近、小さな教会などは経営がうまくいかず、潰れてしまうところも珍しくはない。
 フロローは馬車を下りると教会の中へ、少しばかり緊張した顔つきで入っていった。
 
 「近くを通りかかったので、ご挨拶をと思いまして」
 クロードが驚いたのは無理もない、数日前の事があって以来、子供達の態度から寺院とは、少し距離を置いた方がいいのではと考えていたからだ。
 だが、そんな自分の気持ちなど気づいても居ないのか、司祭の表情は穏やかだ。
 そのとき、神父さんと職人らしき男が声をかけてきた、仕事にかかる前に大事名話だと男は二人の聖職者をじろりと見た。
 クロードは職人の言葉に焦った、だが、それも無理はない。
 
 そのとき、ただいまあと子供たちの声が響いた。
 「おお、あんたか」
 子供たちに手を引っ張られて入ってきた女の姿を見ると男は、ちょうどいいと説明を始めた。
 「子供の寝ていた部屋だが、全部取り壊して、新しく作り直したほうがいいと俺は思っている」
 「それは古いからということ」
 「すきま風もだが、床や壁板もひどいもんだ、土台を調べたら一部は腐っているところもある」
 「だったら壊して、土台から造り直して」
 「お、おい、あんた」
 女の言葉に職人は神父を見た、しいいのかと問いかけるように。
 「数年暮らせても意味がないのよ、東洋では木造でも百年残る建物があるのよ、パリ職人はできないの、できないなら他の職人を捜すわ」
 その言葉に男の表情が変わった、知らない国の建物、百年という言葉に驚いたのかもしれない、それとも職人としてのプライドの刺激されたのか。
 「準備が出来次第仕事にかかる、子供らは別のところに寝泊まりさせてくれないか、それから支払いのことだが、教会を見りゃあ、わかる、金はあんたが、払うのか」
 「ヴァルモン商会の主が払うわ」
 男の表情が変わった。
 
 女の隣に立っている商家の男の見賭場を聞いてクロードは驚きを隠せずにいた。
 教会への寄付として建物の修繕、補修をする金を出すという申し出は驚きだ。
 何故と思わずにはいられなかった。
 「彼女の話を聞いて手助けしたいと思ったんです、善行というのを死ぬ前にやって置きたいと思いましてね、私の噂はご存じないですか」
 「仕事を辞めたのは病気が」
 「ええ、今は街に出て絵を描いています、でも、それもいつまで続くか、人生は何が起こるかわかりませんからね、ところで神父様にお願いがあります」
 
 破れた服を縢ったり、洗濯したりしながら女はため息をついた。
 貧しい人間、特に子供が腹を空かしている姿というのは見ていて気分のいいものではない、自分が手助けをしたところで救えるとも思ってはいない、だが、見過ごす事ができないのだ。
 多分、仮面の男は、そのことに対して怒っているのだ、偽善だと言われても仕方がない、少しずつ疎遠にしていったほうがいいのだろうか。
 
 街中で一人の貴族と出会ったことは偶然といってもよかった。
 道端に座って絵を描いていたので思わず覗きこんでしまったのだ、すると男は驚いた顔をした。
 「異国の人ですか」
 「はい」
 「どうです、私の絵」
 うまいか、下手かと聞いているのだろうか。
 「楽しそうに描いているなと思ったんです」
 男は笑いながら色々な事を聞いてきた。
 「悩んでいる顔ですね」
 突然、何を言い出すのか、困った顔をしていただろうか、思い切って話した方が気持ちも楽になるだろうと女は自分が会った教会の貧しい子供達のことを話した。
 「パリには貧しい人間がいます、子供だけではない、大人も年寄りも」
 「偽善かと言われても言い返せないんから、駄目ですね」
 「そうでしょうか」
 男は、あなたの名前は尋ねた、そして笑いながら、もう少し詳しく聞きたいですねと言葉を続けた。


 クリスティーナと女が地下で偶然にも顔を合わせてしまったのは偶然だ。
 「先生、どなたですか、こちらの方は」
 彼女を見たクスティーナの目つきは、驚きだけでしはない、どこか怒っているような感じさえして、男が唖然となったのも無理はなかった。
 知り合い、友人、ナーディルに頼まれて預かっているというのは後になって思いついたの言い訳だが、結局のところ、今日は帰りなさいというのが精一杯だった。

 「彼女が、あなたの生徒なのね」
 地下で暮らすようになってから、もしもの事を考えて、歌を教えている生徒が一人いるという事は説明していた。
 「気を悪くさせたみたい」
 殊勝な言葉を口にした彼女は私を見ると、何か言いたげな顔で口を開きかけたが、それきりで、ほんの数日前まで決して悪くはなかったと思っていた関係が崩れてしまった感じがした。
 部屋の空気までが重苦しく感じられてしまい、どうすればいいのかと悩んでしまった。
 話題を変えようとしたのか、女の方から口を開いた。
 教会の修繕工事が始まるという、街で会った商人の男が金を出してくれるのだと聞いて仮面の男は理由を聞いたが、女は詳しく話そうとはしなかった。
 

 
 その日、子供達は皆、堅い表情で寺院の中に入ると周りを見回した。
 教会と違い大勢の修道女、僧侶もいるのに建物の中は静かすぎて、緊張してしまうのは無理もない。
 皆、司祭様に挨拶とお礼をとクロード神父に言われて頭を下げるが、その声はあまりにも弱々しく小さいものだが、無理もない。
 見かねたのか、あんた達と女の大きな声が響いた。
 「挨拶とお礼は、はっきりと言わないと駄目でしょ」
 「で、でも」
 「バスチューユに連れて行かれるところだったのよ」
 子供達の言葉に女はすんだことでしょ、自分は気にしていないからと言葉を続けた。
 「ここなら安心して預けられるから、皆、行儀よくいうことをきいてね」
 
 教会の修復工事が始まる際、子供達を預かると申し出たのはノートルダム寺院だった。
 困っているときは助け合わなくてはという申し出をクロード神父もだが、素直に受け入れる事ができなかったのは子供達のほうだった。
 
誰なの、あの人は見た目からしてフランス人ではない、外国人である事がわかった、声をかけようとしたが言葉が通じるのかと思い、ただ、呆然としていた。
 だが、それは相手も同じだったようだ、無言で打開を見つめ合っていたが、長くは続かなかった。
 クリスティーナに声をかけたのは仮面の男だった。
 「今日のレッスンはなしだ」
 
 地上への道、自分の部屋へ戻る間の道のりを歩きながら、あの人は誰ですか、先生の知り合いですかと聞きたかった、だが、何一つ、言葉が出てこない、どんな答えが出てくるのかと思うと怖かったからだ。
 だが、これだけは聞かなければと思い、入り口の前まで来たとき、鏡の前で立ち止まった彼女は尋ねた。
 「あの人も歌手を目指しているんですか」
 外国人と見える女性がオペラ座の舞台に立つなど、どれほどの実力、パトロンの後ろ盾があっても容易ではない、だが、オペラ座の怪人と呼ばれる男が協力すれば不可能ではないかもしれない。
 「違う、いいか、クリスティーナ、見なかった、おまえは何も見なかったんだ、ジリイにも、ナーディル・カーンにも話すな」
 それは口止めというよりは、まるで脅迫するような冷たい声だった。
 怖い、どうして、そんな言い方を、自分が今まで彼に逆らったことがあるだろうか、怒らせた事が。
 「わかったか」
 このとき、彼女は男の仮面を取ったときの事を思い出した、怒りの叫びに自分は怯え、怖くて怯えて逃げてしまったことを。
 だが、そんな自分に男は縋っていたのだ、なのに今は、どうだろう。
 冷たい視線を向けられて彼女は頷くことしかできなかった。
 
  
 
 寺院での仕事を終わるとクロードは教会へと足を運んだ、工事の進み具合を見る為だ。
 帰り支度を始めた職人たちが神父の姿を見て声をかける、教会の中へ入るとクロードは探していた姿を見つけて近寄った。
「神父様」、
 足音と気配に気づいて女我振り返った。
 「工事はかなり進んでいますよ」
 「そうですか」
 女の隣に立つとクロードは何から話そうかと迷った。
 「忙しいですか」
 「はい」
 「実は、子供たちが少し元気がないようで」
 よければ顔を見せてほしい、そうすれば安心する、だが、口にしかけた言葉は最後まで出てこなかった。
 「近いうちに行こうと思っていたんですよ、フロロー司祭からも、そのことについては言われていますし」
 「司祭殿が」
 「ええ、先日、街で会って話をしたんです、子供たちと夕食をどうかと言われたんです」
 素直に心から喜べない自分がいた。
 司祭は子供の事を気遣っての言葉だろう、だが、本当に、それだけだろうか、バスティーユへ投獄されなかったのは彼の言葉があったからだ、それは感謝している。
 話題を変えようとクロードは天井を見上げた。
 「実はヴァルモン氏から、教会に、あなたの部屋を用意して欲しいと頼まれているのです」
 「そんな話、聞いていませんが」
 「氏は絵を描いています、病院のベッドの上で」
 隣に立つ女の横顔を見ながら、クロードは視線を落とした。
 「頼まれたのです」
 返事のないことにクロードは、やはりと思った。
 
 つい先日、教会の修繕の工事の事でクロードは出資者のヴァルモンから呼び出しを受けけた、そこには商家の人間も数人いて、現在の工事も、修繕の為の費用、金が足りなければ彼らが金を出すということを契約文書を取り交わしたのだ。
 そして二人きりになったとき。

 「クロード神父、教会の工事が終わった後、彼女を教会に住まわせてもらえないだろうか、だが、修道女という名目では駄目だ」
 この申し出にクロードは驚いた。
 「教会は私と商家の人間が金が出している、貴族や他の人間が口を出す事はない」
 「理由を説明しては貰えないでしょうか」
 何故、そこまで見ず知らずの彼女の世話をするのかわからない、理由があるのだろうかと知りたいと思い、クロードは理由をと訪ねた。
 「彼女は地下に住んでいる、詳しくは話さない、自分の事を全て忘れているからだ、嘘ではない、私は以前、外国人に逢った事がある、記憶をなくした人に」
 窓の外を見ながら、もう随分と昔の事だと男は呟いた。
 「彼女に会ったとき、私は、あの人が逢いに来てくれたと思ったんだ」

 子供達の様子が可笑しいと気づいたのは夕食の席での事だった。
 「ジョン、何かあったのかね、皆、少し元気がないようだが」
 「な、なんでもないよ、神父様」
 にっこりと笑う少年だが、明らかにおかしい、子供の頃から面倒をみていたのだ、分からないはずがない。
 「あ、あのね、寺院の前で男の人に声をかけられたの」
 咄嗟に一人の少女が口を開きかけたが、慌てて少年がじろりと睨んだ、だが少女は喋るのをやめなかった。
 「知らないって言ったわ、だって」
 「リーナ、何を聞かれたんだ」
 神父が続けなさいと促した。
 「外国人の女の人を、知り合いだから呼んで欲しいって言われたの、でも知らないって答えたわ、だってあの人」
 「おまえ、あっちに行ってろ、俺が話すから、皆にもちゃんと言うから、分かったか」
 少年の言葉に少女は頷きながらも不安な顔色は消えない。
 
 「心配する事はないです、神父様、その人の事は」
 「知り合いというのは本当かね、ジャン、もしかして、おまえも声をかけられたことがあるのか」
 「男です、でも顔はわからなかった、仮面をつけていたから」
 「仮面を、か」
 クロードは数日前の会話を思い出した、彼女は地下に住んでいるという事、顔を隠した、その男と一緒に暮らしているということだろうか。
 (一緒に、地下で)

 教会修復の為に全ての財産を投げ出した、いや、寄付したという話がパリ中に広まった数日後に男は静かに息を引き取った。

 
 何故、自分はこんなところで寝ているんだろう。
 目を覚ました女は天井を見ながら思いだそうとした、周りの壁を見ても見たことのない石と木の造りでここが、どこなのか、さっぱり見当がつかなかった、地下でないことは確かだ。
 その前にベッドで寝ていたというのが不思議に感じられた、そして今は昼間なんだと思うと嬉しい気分になった。
 地下にいたときは昼夜の区別を知ることができなかったからだ。
 起きあがると着ていたシャツが汗でびっしょりと濡れていることに気づきシャツを脱いだ、シーツを巻き付けてドアを開けてみるが人の気配は感じられない。
 代わりにひんやりとした空気、風が感じられる、太陽の光、外を見たくて歩き出すと程なくして気づいた、自分がいるところは高い場所なのだと。
 
 「凄い、高い、落ちたら大変だあ」
 まるで子供のような台詞を口にしながら見ている相手などいないのに女は手を振った。
 「報告します、皆、あたしは元気よー」
 家族も友人も、自分の事は何一つも思い出せないが、悩んだところでどうしようもない。
 実際のところ、泣きたい衝動にかられても涙も出てこないのだから、自分は薄情な、いや、心臓が図太い人間なのかもしれない。
 だが、不思議なことにそんな事を考えていると涙が出てきた。 
 そのとき、子供の声に呼ばれて女は驚いた。

 
 神父様と呼ばれてフロローは緊張した顔つきで相手を見た。
 ああ、子供らに声をかけていた男だと分かり、思わず顔が強ばってしまいそうになるのをいけないと思いながら、平静を装い何かと尋ねた。
 「こちらで外国人の女性が子供たちの世話をしているのは分かっている、私は彼女の知り合いで」
 「存じています」
 深くかぶった帽子の下からも白い仮面が見える。
 「彼女はノートルダム寺院にいます」
 その言葉に男は驚いているようだ、無理もない。
 「体調がよくなくて」
 クロードは慎重に選びつつ言葉を続けた、嘘ではない事実だ。
 ただ、少しだけ脚色した、動かず静かに寝ているのがいいのだと。
 「あなたのところに今、帰るというのは待っていただきたい」
 返事はない、だが顔は見えなくてもわかる、明らかに不満を感じていると。
 「寺院、フロロー司祭の好意で医者にも看てもらっているのです」
 「外国人を、か」
 「だから、どうだというのです」
 クロードは相手を見ると失礼と背を向けた、男と話す事に得体の知れないものを感じたのだ、ひどく陰鬱な感情もだ。
 今、分かった、子供らが、あの男に感じたのは仮面をつけている、顔を隠しているというだけではない、あれは暗い闇の中で生まれた人間、神ではない、悪が生み出した者だと。
 
 (彼女を教会に住まわせて欲しい)
 思い出した、氏は直接は男に会ったことはないかもしれない、だが、彼女と話しをして何かを感じたのではないだろうか。
 不安を。
 寺院に戻るとクロードは自分の部屋ではなく、女の部屋に向かった。
 ドアの前に立ったとき、話し声が聞こえた。
 子供たちの声ではない、男の司祭の声だ。


 


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