堕ちてきた人 3

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 二週間あまりが過ぎた、他人と暮らす事は今までの生活が一変するのだと改めて感じて男は戸惑ったのも無理はない、クリスティーナ・ダーエを初めて地下に連れてきたときとは、全ての状況が、あまりにも違うからだ。
 だが、少しずつだが慣れてきたのではないかと男は思っていた。
 不思議なのは、女が記憶がないという事を本当に不安に思っているのかということだ。
 普段の様子と会話を見ていると女我気にしているというのが感じられないのだ、もしかして虚勢をはって、わざと平気なふりをしているのかもしれないと思い、なるべく自分から、その事には触れないようにしていた。
 
 「ここを使って、いいの」
 自分の住処から少し離れた場所、物置同然の場所に眠れるようにベッドと身支度できるように鏡を備え付けたのはクリスティーナとの接触を避ける為だ。
 もし、彼女の存在を知ったら他言無用と言っても広まってしまう可能性がある。
 それに地下まで降りてくるのは彼女だけではない、ナーディル・カーンもいる、現職ではないが、ペルシャにいた頃は警察長官という立場だ。
 クリスティーナが彼に喋ってしまう可能性がないともいいきれない、そうなったら、あの男は女の素性を調べるかもしれない。
 正直ナところ、それは避けたかった、出会った時の状況を考えるとパリの街で外国人の女が一人、これだけでも悪い想像しか頭に浮かばないのだ、この女の境遇に関しては。
 クリスティーナでさえ、初めて自分を見たときは警戒心を抱いていた、勿論、この女も同じだ、だが、根本的なところが違うのだ。
 都合良く考えている自分がいた、優しくしてやれば何かしらの代償を女は自分に与えてくれるかもしれないと、金銭は最初から持っていないのはわかっている、なら【体を】
 そんなことを考えたのはクリスティーナに、求めるのは今では無理だと分かったからだ。
 だが、目の前にいる、この女なら、そんな事を考える自分の心情を浅ましく思いながら男は女に声をかけた。

 最初の数日は地下を歩き回っていた女だが、しばらくすると外に出るようになった。
 そして外出の時間も長くなった、朝出かけると数時間、時には夕方近くまで帰らない時もあった、とうとう一晩、帰ってこない日には男の怒りは爆発した。
 
 自分が怒ったときのクリスティーナの怯えた顔を思い出す、あのとき彼女は自分に殺されるかもしれないと思ったのかもしれない。
 彼女にしてみれば当然だろう、ずっと素性を、顔を、隠遁者のように隠して地下に住んでいたのだから。
 だが、この女は。
 「悪かったわ、帰りたくてもできない状態だったのよ」
 「どこにいたんだ」
 「教会、夕方から雨が降ってきて」
 濡れたくなかったの、地下にいれば無理ないかもと女は言葉を続けた。
 「ごめんなさい、気がついたら夕方になっていたし日暮れだったから、一人だと危ないと思って泊めてもらったの、クロード様って、いい人でね」
 「誰だ、それは」
 仮面の下の自分の顔が強ばるのを感じ、自分の感情に男は今更ながら驚いた。
 
 

 赤ん坊は死んでいた、またかと思いながら神父は落胆のため息をついたのも無理はない、今月に入って何度目になるだろう。
 子沢山の貧しい家族、いや、娼婦が産まれてまもない赤ん坊を教会の門前に置き去りにするのは決して珍しいことではない。
 パリには幾つかの孤児院もあるが、それらの殆どは金持ちの貴族が建てたものだ、そして子供の数ときたら。
 教会ならなんとかしてくれると思って置き去りにするのだろうが、僧侶の自分たちが食べていくのがやっとなのに子供の食い扶持、養う余裕などあるわけがない、だが、見捨てておけないのも事実だ。
 正直なところ、聖職者などやめたいと思うときもあったが、子供の頃から、この道を目指していたのだ今更、新しい人生に踏み出す勇気などなかった。
 
 クロードが配属されたジュスティーナ教会は規模も建物自体も決して大きいとはいえないが、それなりに満足していた。
 だが、最近になって事件が起きた、教会で養っている子供がジプシーと諍いを起こしたのだ。
 街中で歌や踊りを披露して日銭を稼いでいる流浪の民と呼ばれる彼らだが、特に男たちは荒い性格の連中もいて数人で盗みを働く者もいるくらいだ、暇つぶしに子供をからかっては苛める者もいる。
 相手が子供だからといって情けをかけるほど甘くはない。
 
 「助けて貰ったんだ」
 少年は、そのときの様子をクロードに自慢げに話した。
 「お礼は言ったのかね、ジャン」
 「うん、笑ってたよ、いきなり、バケツに入った水をジプシー達にぶっかけてさ、ジーナがぶたれそうになったら、いきなり抱えてね」
 「そうなのよ、神父様、ジプシー達に囲まれて怖かったけど」
 興奮しながら話す子供の様子にクロードは内心、ほっとしながら、助けてくれた相手に感謝した、大抵の人間は見て見ぬふりをするジプシーには道理が通じない者もいるからだ、関わり合いになりたくないのは当然だ。
 貧民街、親のない孤児院の子供だと分かる、そんな親切心を持っている人間がいるなど正直驚きだった。
 「もし、その人に会ったら、私からも礼を言わなければ名前は聞いたかね」
 突然、二人の子供は黙りこんだ。
 「どうしたんだ」
 「聞かなかった、です」
 少女が消え入りそうな声で答えると少年が首を振った。



 それは突然だった、神父様、クロードと叫びながら子供達が自分の部屋に飛び込んできたのだが、顔つきからして普通ではない、中には泣き出しそうな涙を浮かべている女の子もいる。
 「どうしたのだ」
 「助けて、神父様、牢屋に入れられちゃう」
 いきなり何を言い出すのかと神父は子供達の中で最年長の少年に説明を求めた。
 「坊さんが、ジプシーを捕まえたんだ、一緒に歌っていた彼女のことも、お願いだ、助けてあげて、俺たちに食べ物や勉強だって教えてくれるんだ、悪い人じゃない」
 そのとき、数日前の話をクロードは思い出した。
 子供達に親切にしてくれた人間がいたことを。
 「ノートルダム寺院の若い坊さんだよ、外国人だから怪しいって」
 クロードの顔が曇った無理もない、パリには小さな寺院、教会がそれこそ無数にある。
 だが、中でもノートルダムは別格だ。
 「駄目なのか、悪い事なんてしてないのに、神様は助けてくれないのか」
 クロードは迷った、ノートルダムの若い僧侶なら上の許可が出ればすぐに牢屋行きとなってしまうのは目に見えている、バスティーユに送られたら、決して日の目を見ることもできない外に出ることもだ、いや、出られたとしても、それは死んで物言わぬ死体になったときだ、正直、迷う時間と猶予はなかった。

 


 許可を頂きたいのです、司祭様、その言葉にフロローは何故と問い返した。
 街で踊り歌ってるジプシーの連中を見つけました、それだけではありませんと言葉を続け、怪しい女を捕まえましたと視線をフロローの後ろへと向けた。
 数人の若い僧侶に囲まれている、その人間を見てフロローはいぶかしげな表情になった。
 
 「あなたはジプシーではないのか」
 声をかけた自分を黒い目がじっと見る、まるで吸い込まれそうだと思いながらフロローは尋ねた。
 女がこっくりと頷いたが口を開こうとはしない、もしかして緊張、いや、怖がっているのか、女を取り囲むように立っている若い僧侶達にフロローは手を振り追い払った。
 
 「あなたは」
 再び声をかけようとした、そのとき、寺院の扉が開き、わああっと叫ぶ声と足音がして建物の中に数人の子供が駆け込んできた。
 何事かと視線をそちらへと向けたフロローに、お待ちくださいと神父が近づいてきた。
 
 クリスティーナ寺院のクロードと名乗る神父の言葉は女の庇護を求めるものだった。
 「孤児たちの世話を、この女性が」
 フロローは信じられないという顔つきになったのは無理もない。
 ここ数年、小さな教会はどこも経営が苦しいと聞く、身寄りのない孤児がいれば尚更で経営も成り立たず、教会そのものが潰れてしまうこも珍しくはない。
 貧しい教会で働く人間、孤児達の世話をする者がいる、しかも外国人なら何か理由があるのではないか、そんなことをフロローは考えた、だが。
 「汝、すべての者を愛せよ、罪なき者を牢屋に閉じこめるとは何事かって神は言うぞ」
 一人の子供が大声で叫ぶと、他の子供たちも大きく頷き、そうだ、そうだと叫び始めたが、慌てたのはクロードだ、おまえたちと止めようとしたが、子供たちはやめようとしない。
 そのとき。
 「皆、静かに」
 女の言葉に子供たちは黙り込んだ。
 「大丈夫だから、ジャン、後の事、皆を頼むわよ」
 少年は驚いて何か言おうとしたが黙ったまま頷いた、そのとき。
 「お帰りなさい、あなたを解放しましょう」
 フロローの言葉に全員が唖然となった。
 
 「ありがとうございます」
 女が自分に頭を下げるとフロローは外国人ですかと尋ねた。
 「名前は」
 女の顔がわずかに曇った、そのとき、少年が女の手をぐいっと引っ張った。
 
 
 「神父様が助けに来てくださって、本当にありがとうございます」
 「こちらこそ、子供たちを以前助けて下さったそうで」
 クロードは女の顔を見たが、すぐに視線をそらした。
 「でもよかった、あのフロローという人がいい人で」
 女の言葉に全員が黙りこんだ。
 「ノートルダムの坊さんたちは皆から怖がられているんだ、ジプシーた達は悪魔の使いだとか、体の不自由な物乞いをしている人に対しても厳しくて」
 「まあ、聖職者というのは偏った考えの人もいるから、でも全員がそうだとは限らない、クロード神父様はこうして助けに来てくれて、フロロー様も解放してくれて、そして今夜の夕食はポークソテーにリンゴソースにかりかりのフランスパン」
 「す、凄い、お肉が食べられるの」
 「ジプシーたちに分け前をもらったからね、それとデザートはリンゴのパイっていうのはどう」
 「凄い」
 「やったああ」
 子供たちの歓声にクロードは何か言いかけようとして黙り込んだ。
 その夜、教会の子供達は久しぶりのご馳走に喜んだのはいうまでもない。
 
 
 


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